外国語教育は言語が優劣と無関係ではない

外国語教育と言えば英語だ。英語の使用が多く英語を知っていると便利なことが多いからだ。それは合理的な理由だから納得ができる。
しかし英語学習の重要性は否定しないとしても、語学教育、とくに公教育や義務教育などにおいては、その選択する言語においては意識的か無意識的かはべつにして、国際間や民族問題などが含まれていることが多いと思う。
語学学習にはいろいろな方法があるだろうが、とくに普通教育などの学校教育でそれが行われる場合は、そこにつねに国家や民族などの力関係があると思ったほうがいいと思う。
もちろん一概に言えることではないが、ある言語を積極的に学ぶ場合は、たいていは学ぶ側がそれを求めるからだ。当然といえば当然かもしれないが…外国語を習うという場合、そこにはやはり「力関係」のようなものがある気がする。その言語を学ぶ必要があるということは、普通はその言語を使って何か役立てようとするからだろう。しかしもし逆に相手のほうが自分の使う言語を学んでくれたら、そのほうがこちらとしては楽なはずだ。
露骨な表現をすれば、「力の弱い側のほうが相手の言葉を学ぶ」ということだ。必ずそうだとは思わない。ただ多くの場合は、立場が弱いとか不利なほうが言葉を学ぶと思う。
こういうことを考えると、語学学習、外国語教育というのは、たんに外国語を教える学ぶ時ことを超える民族や外交や心理的なことを含めての課題が含まれている気がする。
安直と思われるかもしれないが、国家・国民・民族問題・国際関係などを考えると「差別や蔑視を少なくするために、その言語を学ぶ」という政策もあると思う。その言語を学ぶと大なり小なり、それを母語としている人々に対して、ある一定の敬意のようなものを感じるということもあるからだ。