トクサツガガガー差別の深み

トクサツガガガは、差別と僻(ひが)み…この深刻なテーマを丁寧に、しかし重く感じ過ぎないで自然体な流れのなかで判っていけるドラマだと思う。
一般にオタクといわれる人々に対しては、それがほかのたとえば障害者・ジェンダー・人種・民族・言語・学歴・職業・収入・財産・血筋・家柄…等にくらべて「差別をすることに罪悪感を持ちにくい」ということがあるのだと思う。
先に列記したようなことは、いわゆる差別の問題となる概念の殆どのものだと思う。これらのことがなぜ差別の対象になることが問題かといえば、それらが基本的に、ひとつにはそれが自分で選ぶことができない或いは困難であること、もうひとつはそれが生存や生活に大きな影響があること、この二点があるからだと思う。
このドラマではとくに特撮ヒーロー番組を好きな成人女性が主人公で、彼女を中心にアニオタ(アニメオタク)やドルオタ(アイドルオタク)などの姿が描かれている。主人公の仲村叶は、「成人」で「女性」である。好きなものが特撮だから、たぶん普通一般の感覚で「幼年期ぐらいの主として男の子が喜ぶもの」という認識があると思う。もちろんこの概念じたいが「偏見」という主張はあるだろうし、その見解は道理のあるものでもあろう。特撮好きに年齢制限があると誰が決めたわけでもあるまい。嗜好に性別の違いを強制することなど、それじたいが性差別となるだろう。ーそういった理屈は、おそらくかなり多数の人は知っているのではないかと思う。まして時代や社会の変化は、これからは多様性を受容し合う世界を求めていくべきだという方向に進んでいる。
ただ実際の世の中は、それほど急速には変わらない。技術や制度などはまたべつにしても、人間の感覚は、既存の習慣や生活、具体的な人間関係や漠然としたイメージなどをなかなか変えられない。
やはり現在の段階では「小さな男の子の観るもの」という認識を持つ人々が多いことも事実であろう。そしてそのさい問題は「いい年をした大人で、しかも女で」という気持ちがそこに大なり小なり付いて来るであろうことを否定できないということだ。そこにはさらに「そんなあなたが特撮好きであれば、あなたはヘンに思われても仕方がない」ということになりやすい。ましてそこに「特撮なんかなくてもそれが死活問題になるわけでもないだろう。しょせん趣味の話ではないか」という価値観が加わると、それに関する差別は認められやすくなる。いや、差別とさえ、認められない。
ここで特撮好き・特撮オタクが尊厳を主張する根拠は「自由」の価値である。特撮あるいは特撮でなくても、いわゆるオタクと呼ばれる人、認識される人は、なぜ偏見の目で見られ蔑視的な扱いを受けるのか?それは少数派と見られるからという理由からだ。趣味や嗜好が一般的な多数者が求めることであれば認められ少数者や珍しい存在であると認められにくいというのは、自由がないということだ。自由は少数者や弱者であっても存在し奪われない。それが自由のもつ最大の価値である。少数者・弱者・反対者の生き方を守り尊重することが自由である。自由を守ることは、少数者や弱者が強者や多数者と同等の権利を持つことを意味する。それは平等につながる。平等である故に、差別をされてはならない。
トクサツガガガは、自分がこれまでに観たドラマや映画のなかで最も自由の尊さを教えてくれる作品だった。