戦争当時の日本人

戦争や平和を考える場合、とくに日本人としては、日本の近代史のなかで「その当時の日本人のこと」を考えていくことは重要なことだ。

とくに一般の人々が当時をどう過ごし、戦時中や昭和初期の時代を、どのような感覚で生きてきたのかは、案外に知られていない。

戦後生まれ戦後世代の人間は、当時の大半の日本人のことを、解っているようで全く解っていない、というような感覚だと思う。

どうしても戦争体験がない多くの日本人は、戦前・戦中の日本人の殆どがとった行動・生活・意識や感情などにたいして理解できないことも多いだろう。つい、現代の感覚で考えてしまう。そのあたりのことを知る努力が、いま一番求められているのだと思う。

日本文化と日本人

通例で言われる。「日本の絵画は面が強調される」「日本の古典文学は、たおやかだ」「日本語や日本人のコミュニケーションには曖昧が多い」「日本人の真髄は「おもてなし」の心だ」「日本人は目立つことをこのまず、周囲の協調を求める」「日本文化は職人が造った」「日本人は勤勉だ」

これらのことは昔から言われてきた。それは外国人から言われた場合もあるし日本人自身が言う場合もある。そういった日本人や日本文化などに対する感想や認識には、それを批判的・否定的な意味で言ったこともあるだろうし、賛美的・肯定的に言った場合もあるだろう。

そういったことを、近現代の日本人は、自虐と傲慢のコンプレックスと共にすごしてきた。

くだらないことだ。

どうであってもいい。

なるようになる、それが一番だ。

男のいない世界

承認欲求の延長としての暴力・破壊および競争と勝ち負けのこだわり、そして究極のところ権力・権威・名誉などを含めて「支配」を求めるという男の本能を考えると、結論的には男はいないほうがよいと思う。

社会的にどのようにしていくのがよいかは、経験的に、できるだけ男のそういった欲求欲望つまり破壊衝動や権力志向などに適度に対応しつつ同時に、草食男子と言われるような男が増えていくような方向を考えるのも必要かと思う。

しかしこれはSF的に聞こえるかもしれないが、これだけ科学が発達した世の中においては現実性のあることだと思う。かつてのSFの多くが、もはや現実になっている。

まず人工的な精子が出来るようになること。そうすれば事実上は男は不用になる。そして医学的にその人工的な精子からは必ず女しか生まれない、絶対に男は派生しないように作られる。それらが可能となれば、男が全く存在しない女だけの世界が永続することになる。

女だけの世界が本当にどこまで理想な世の中になるかは言い切れない。だが少なくとも、男のいる世界に比べれば、女だけで成り立っている世の中のほうが、暴力や権力、戦争や支配といったことは少なくてすむように思える。

人間は普通の生物

人間、人類を特別視したことが、根本の間違いだ。

言語、思考、理性…特にこういったことは「人間特有」と思われてきた。だが本当のところは判らない。さらに科学が進んでいけば解ることかもしれないが、今の段階では殆ど解っていないと思う。人間が勝手にそう言っているだけではないか。

こんなことは、ずっと昔から解っていた。「解っていない」ことを「解っていた」はずだ。素直に考えれば、そのまま「それは、わからない」ではないだろうか?それをわかっているように思い込んでしまった。いや、思い込みたかったのだと思う。人間が特別な存在であることにしておきたかったのだ。

これが人間の最大の傲慢さだと思う。

英語学習

英語が事実上の国際語だから、英語圏でない国や地域の人間は、学校など公教育では、外国語学習としては基本的に英語だけを勉強すればいいと思う。少なくとも初等教育中等教育などの基礎学習としてはそれでいいと思う。

英語圏の人々は、英語は外国語として学ぶ必要がないぶん楽だ。そのかわり公教育で、英語以外の外国語を学習すべきだ。その際に、学習する外国語に相当な偏りが予想できる。それ故に、英語圏の生徒をできるだけ均等に分けて、学ぶ外国語の種類が、まばらで多数ヶ国語に配分されるようにすべきだ。英語以外の言語を学ぶ場合でも、やはりどうしても多くの地域や人口で使われている言語に人気が集中しがちになるだろう。できるだけ多くの言語が学習対象になったほうがいい。

気まぐれな文化

文化とは人間のことである。人間の集合体とその営みの歴史そのすべてを文化と呼ぶ。

文化が人間だ。

文化が人間のあかしである。

そして文化は、気まぐれに積み重なる。

古くなった文化を古典文化という。その時代と世の中にあって、多数や主流ではなく、しかし昔から続いていることを古典文化という。

ラジオ体操は古典文化である。

爪入りの学生服は古典文化である。一般的なファッションとしてのセーラー服は古典文化ではないが、女子学生の制服として現在でもセーラー服を用いられていれば、それは古典文化ということになる。二千円札は古典文化だ。書籍で例えば新潮文庫などは今でも枝折代わりの紐が付いているが、これなどは古典文化といっていいと思う。ナルト巻入りのラーメンを古典文化というかは微妙だが、いずれそうなるかもしれない。

科学も政治経済も、人間関係のありようから国際会議も何もかも含めてーーあらゆることの中には古典文化と言えるものがあるだろう。

だが基本的に文化は気まぐれなものだ。その時々の流行りや需要供給関係や社会の力関係やーー人々の嗜好や衝動や惰性などで文化は生まれる。

気まぐれと流行の連続の上に文化は生まれ成長する。あるいは滅びる。

人間そのものが気まぐれなのだ。

とうぜん文化も気まぐれである。

国家・民族・狂信

国家・民族・狂信…これに対応はできない。

国家とは、この場合は政治権力と軍隊だ。民族とは、集団主義の典型である。狂信は、それが宗教でもイデオロギーでも、ほかの呼び方でも、とにかく「それが絶対に正しい」という感情である。ーーこれらはいずれも戦争の最大の原因となる。

スマホによって、世界は相互につながれた。しかもそれは、一方通行でなく、相互の情報とコミュニケーションが可能となった。

商品も世界を席巻した。ハンバーガーは宗教に配慮して、牛や豚を使用しないで作ることもした。ベジタリアンのためには、たとえば大豆タンパクや豆腐ハンバーグも考える。

アニメも漫画も、音楽も美術も、国境を超えて求められ愛される。

ファッションも食文化も、もはや特定の民族や国民を超えている。

伝統や古典も、最新の流行も、古いテレビドラマやナツメロの復活まで

文化と経済は、国境や国籍を超越して、無国籍化していき、逆輸入が当たり前になっている。

モノに限らず、人も情報も、互いに世界の人々の生活と社会に染み込む。

国際的な組織と制度が整備され、さまざまな協定が結ばれる。

平和と豊かさと自由な交流が守られ拡大し…そこに戦争が始まって、だれも得をせず、悲しみと憎しみが生まれるだけだ。

それでも戦争が起きる…

政治権力と軍事力とは、そういうものだと、そう言う以外に表現の仕様がない。それほどまでに、権力と暴力とは、強大なものだというしかない。

戦争は、それじたいが独立したひとつの怪物だ。一個の巨大な怪物だ。

その巨大な力に対しては、

ただ不戦を求め、それを意識するしかない。

無条件に不戦を願うこと。それがなによりも大事なことである。