公家物語(6)

「ドひぇーッ!」
公家はテレビの画面をみながら叫んだ。誤解してはいけない。平安時代の人間がテレビという機械に驚いたわけではない。タイムスリップ的なSF小説やアニメでよくあるような、昔の人…たとえば江戸時代の侍や源平時代に滅亡した平家の落ち武者とかが、現代に突然あらわれて科学文明に「おののく」なんていうのは、もう古い。はっきり言うとマンネリだ。近代の著名人…たとえば鴎外や漱石が現代にあらわれて、最初とまどいながらも意外に早く現代社会に順応していくって話も、これまたドラマなりライトノベルズなり…べつにライトノベルじゃなくてもいいんだけど、ー要するにもう慣れっこになっている。
勘違いをしているようだが、平安時代にタイムスリップなど珍しくない。異次元世界も、人々の意識としても現実世界としても、それらは当然に「ある」ものだったのだ。平安朝の公家にとって、その後にくる武家の時代も、日本が近代化して紆余曲折した末に、いったんは破滅に近い状態を経験することも知っている。そこに歴史の運命と残酷さを感じることは確かだが、しかしそれなりの「割り切り」をしなければ先に進めないという実状も、ボンクラ公家は公家なりに考えているつもりではある。もちろんそれは、幾多の「if」…イフ「もしも」の世界に描かれるような、深刻あるいは「深刻そうな」テーマやモチーフを用いたものとは違う。出撃した特攻隊員が現代にあらわれて、混乱し現実が理解できたあと、助かったという喜びを素直に認められない葛藤や、その後の日本の歴史を知って複雑な気持ちに苦しむ、ーなどということとは違う。あるいは現代から過去の歴史的な決定的な瞬間に遭遇してしまい、現代の知識と技術を用いればそのーとくに「悲劇的」な出来事を回避できるかもしれないが…しかしそうすると歴史が変わってしまい、どうするべきか迷う、とか。
そういうんじゃない。そういうんではないが…平安の王朝貴族というのは、馬鹿が多いかもしれないが、それなりに世界や時代を認識している。
「ヒょーッ!」。テレビの画面を見て、公家はまた叫んだ。