真理は壊れていく

ここにいると真理や知識というものが、とても脆いものだと感じるし、またそれらに対する価値もずいぶん変化するのだと思うようになった。
もともと学校の勉強は全般に苦手だし、好きな教科や部分的興味を持つ物事はあっても、いわゆる勉強全体は好きではない。少なくとも、いわゆる優等生のことを凄いと思っても、自分はそういう人々とは無縁だと思っている。つまり自分の興味のあることには夢中になり、しかし熱しやすく冷めやすいというところもある、その典型的なタイプだと思う。
たとえば自分が小学生の頃、少年マガジンとか少年画報とか、週刊誌か月刊誌かといった違いはあっても、いわゆる少年誌に「世界が持っている核兵器は、世界を4万回滅ぼすことが出来るだけの量がある」といったことが書かれていた。これ実は4万回だったか四百回だったか、ちゃんと覚えていない。だけど、それは大した問題ではない、少なくともこの場合には。子供ながらにも、大人や政治家は、なんてバカなのかと思った。それが4「百」でも4「万」でも、実際には意味を持たないということは小学生でも判ることだったからだ。言うまでもないが、人類が1回滅びたら、もうそのあとはないではないか。なんのために、あきらかに必要がない核兵器を作り続けているのか理解できなかった。
しかし…大人にあるということは、理解は深まるのかもしれないが、むなしくもなるものだということが判ってくる。本質はその通りだが、それでも「大人の事情」を次々と作りあげて、納得は出来ないけれども、なんとなく仕方ないのだろうな…という理由でいろいろ言いくるめられてしまう。そして「みんな判っているんだ。1回滅びたらそれで終わりだということを。それが数万回であっても関係がない、無意味で馬鹿らしいことをしているということは」…ということが判ってしまう。僕の子供の頃は、まだ東西冷戦時代の真っ最中だったから、核兵器が最も深刻なテーマの代表適用なものだった。いまならそれは温暖化であろう。あるいはそれとも直接間接を問わず関わりが有り、影響の大きな事として、移民や民族紛争が、あるいは高齢化や障害者あるいはジェンダーの事などが、いずれもポピュリズムと排外思想に関連して深刻な問題になっていて。それらの分析や見解については、さまざまな一つが論じているので、僕は、とりあえず最も自分が強く感じることを記したいと思う。
介護者や障害者福祉その当事者団体に居て、少なくとも自分がいちばん強く感じたのは「優しさ」と「だらしなさ」この二つがとくに大切なのじゃないか、ということだ。もちろんそうは言っても、物事には限度ということもあるだろう。どうしてもここは、しっかりとやらなければならないという場面もある。…しかし、「優しさ」「甘さ」と「だらしない」「いいかげん」といったことは、かなり密接に結び付いている。絶対的な「正しさ」は、必ず型に押し付け、そこからはみ出る者を抑圧し排除する。問題があることを恐れ嫌悪する場所には真の助け合いも平和も訪れない。そしてまた、知識や理論に頼りすぎることがいけない。もちろん知識や情報、理論や理念的なことなども必要だろうが、いちばん大切なものは、もっと素朴で短時間な感情や感性だと思う。自分も含めてだが、表現やコミュニケーションというのは、これまではあまりにも現行法や論理に偏り過ぎてきたのだと思う。言葉にならないもの、あるいは言葉であっても必ずしも整合性のとれていない表現…それが、かえって本質をついている、ということがとても多い。だいたい、何から何まで矛盾なく整理された理論など、本来は存在しない。それが在るように見えるのは、どこかに誤魔化しがあるからだ。世の中は、この誤魔化しを押し付けて成り立っている。だから大切なことは、「正しさ」や「論理」や「惰性」に誤魔化されないことだ。知識や論理を否定はしない。否定はしないが、いちばん大事なことは、決定的なことは「素直な感性」で判断をするということだと思う。どんな理屈をもってきても、2回以上全人類を滅亡させることができる核兵器など、おかしいではないか。それが子供っぽい考えだというなら、子供っぽいほうがいい。