語学と教養

昔なにかで読んだ。誰の何かも覚えていないが、たぶん雑誌かなんかに載っていたエッセイか何かだろう。
ヨーロッパに行って、普通の庶民が、数ヶ国語をペラペラしゃべるのをみて驚いたと。しかし、そのことは、教養とはべつだと聞いて、また驚いたと。そんなことが書かれていた。
なるほど地続きで、いろいろな言語の人と接する機会が多い。それで例えば観光ガイドみたいなことを商売にしていたら、多くの言葉を話せる人がいても不思議ではないかもしれない。まして似た言語が多いヨーロッパの言葉なら、数ヶ国語を話す人がいても、それは珍しいことではないのだろう。
その人々が、会話力だけではなくて、読み書きの能力もあるのか?会話力は数ヶ国語できても、読み書きは全くできないか殆どできないか?そのあたりは解らない。もちろんそれも、さらに個人差があるだろうし。
ただ、そんなエピソードから、僕が勝手に思うのはーー仮に、いくつもの言語、そう例えば、英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・ロシア語、まあ英語を筆頭に、比較的によく使われるヨーロッパの言葉だな。それに加えて、例えば中国語・韓国語(朝鮮語といってもいいのだが民族問題や国際関係やら面倒なので、とりあえず韓国語にしておく)・アラビア語と、まあ凄いな、そこまで話せたら。とまあ、十ヶ国語近くも自由に会話ができる人がいるとする。じっさいにいるだろう。しかしその人は、読み書きはできないとする。で、一方、外国語は英語を含めて、全くできない人がいる。読み書きも会話も、とにかく外国語を全然、知らない、と。ただ、その人は、自国語・母国語に限るが、読書はたくさんしている。どんな本をどのぐらい読み、どういう読み方をして、それをどれくらい理解しているか、とかはとくに問わないとしよう。もちろんそこでも個人差があり一概には言えないことだとして、ーーその何カ国語も会話ができるが本は全く読まないという人と、逆に読書家だが、会話もなにも外国語というものを全く知らない、という人。はたして教養とか知性とか言われることでは、どちらが有るのだろうか?ーーハッキリとは言えないが、たぶん、後者のほう、つまり語学は全くできないが読書はしている人、のほうかもしれない。これには異論や反論があることは当然として、しかし、いちおうそう感じる。でも、どうして、そう感じるのか?というと、正直、ちゃんとは答えられない。
外国語ができるにこしたことはない。また外国語ができなくても、自国語だけでも、いろいろな人と付き合い、さまざまな経験によって知識や情報に多く接し、いわゆる「耳学問」(じがくもん)というものもある。
そうなのだが、しかしどうしても、この読書と読解というものは、うまく説明がつかないのだが、独特なものがあるらしい。肝心な、それが何か解らないが、でも、なんかあるらしい。
文字とか単語とか文章とか。この読み方とか。
読書というのは、どう脳ミソに関係するのだろう。だが言えることは、読書は脳ミソを狂わせることが多いらしいということだ。
脳ミソが怪物になるのは、たいていの場合、その原因は読書にあると言えるだろう。