日本的な良さの落とし穴

よく日本の美徳として「細かいことにこだわらない」「過ぎたことは水に流す」「正直」「きまじめ」「親切」「周囲を大事にする」「職人気質」「勤勉」「おおらかさ」「謙虚さ」…等々が言われる。
これは本当なのかどうか分からないが、しかし一般的にある程度はそういうことも言えるのかもしれない。それを言うのは日本人が多いかもしれないが、しかし全く日本人の自慢や自惚れだけとも言い切れないかもしれない。先に挙げたようなことは、なにも日本人だけのことではない。でもなぜかそういうイメージが定着していることも確かかもしれない。触れたように「おおらかさ」も「謙虚さ」も、あるいは「きまじめさ」も勤勉や職人気質も、日本人にある程度は特徴が目立つことなのかもしれないが、もちろんそれは日本人に限ることではなく、最後は個人差のことだ。
ではなぜとくに日本人や日本文化のことになると、こうした日本の美点ーそれは必ず美点と言えるかどうかは言い切れないにしてもー日本人の多くはそう思っているかもしれない。
とくに根拠はないので自分の勝手な思い込みが大きいと思うが…たぶん、これは日本人が外国人の言う、日本の良い部分をとても喜ぶので、褒められて嬉しくなって、有頂天になり、無意識かもしれないが、「ほら外国人が日本や日本人、日本文化のことをこんなによくいっている」…と、そういうのが重なってきた結果のような気がする。繰り返すが、そういうことは日本人だけではないと思う。どの国の人も自分の国や民族性などを良く言われて悪い気はしないだろう。ただ日本人は、それに慣れていないのだと思う。明治維新の近代化で西洋に追いつき追い越せと頑張ってはみたものの、最終的には戦争に敗れた。戦争に負けることは、多くの国民は経験しているだろうが、日本の場合はそれが徹底した敗戦で占領され、そして戦争の加害国となった。それが独立・復興・高度成長を経て、一定の自信と余裕が生まれたのだろう。そこにメディアを中心に在留の外国人ーとくにインテリ層のそれも多くは西洋人の「日本贔屓」の発言を採り上げてテレビなどで放送する。ほかにそういった書籍などの影響もあるだろう。個人でもそうだが、たしかに人間「褒められて悪い気分はしない」「けなされたら良い気分でない」ということはある。それが国民とか民族性といった集団についても言えるとは思う。だが日本人の場合はそれに加えて、西洋コンプレックスと敗戦コンプレックスから、実際の必要以上にそこに敏感になって、社交辞令もビジネス上の利害関係や駆け引き、微妙な国際関係なども、全部ごっちゃになってひとつの大きなイメージを取り入れてしまうのだと思う。
それで、最初に例示したような「日本人の良い部分」というのが、どこまで本気にしていいのかについては慎重な判断が必要だと思うが、それよりもっと注意しなければならないのは、仮にそういう日本人や日本文化の良さがある程度は本当だとして、気をつけるべきなのは、とかく日本人はそれを他国や外国人に押し付ける傾向が強いということだ。
歴史的なことで言えば、満洲事変・日中全面戦争・アジア太平洋戦争と続いた戦争は、基本的にはこの日本人の「日本的な良さの他国への押し付け」が招いたものであったと思う。「日本側は、こんなに妥協し譲歩をしている。それなのに、そちらは全く誠意を示さない」…こういう認識からくる感情が、結局あの戦争を招いたと自分は思っている。そしてそこには「日本人は、おおらかだ」「日本は寛容だ」といった自惚れがあったのだと思う。自分は、日本という国家なり国民性なりが本当に「おおらか」「寛容」「謙虚」かは知らない。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。そう言われたらそんな気がしないこともないが、べつに確証があるわけではない。また仮にそうだとしても、それが必ずしも日本だけに特有なことだと言うつもりもない。ただ多くの日本人が、おそらくそのように「思っている」あるいはそのように「思いたい」ーそういう傾向があるのではないだろうか、ということだ。「日本は謙虚なのに、なぜおまえは謙虚でないのか」「日本は寛容なのに、なぜそちらは寛容にならないのだ」ー精神の根底にはこれがあったと思う。
「おおらか」「寛容性」「謙虚さ」を押し付けてしまったら、すでにそれは「おおらか」ではなく「寛容」でもないし「謙虚」でもない。ーこれが日本が、国家としても、国民や民族としても、個人としてもー外国や外国人、他民族に対して最も注意しなければならないことだと思う。そうでないと、相手もこちら側に気をつかい、譲歩をしていてくれているのかもしれない、という基本的なコミュニケーションをとれなくなってしまう。個人の人間関係はもとより、外交関係まで、こういった認識が必要とされていくと思う。