いろいろな人には自分たも含まれている

「世の中にはいろいろな人がいるから」 ー人間関係のトラブルや仕事や社会の問題などで行き詰まるときなどに、こういう言い方をよくしたり、また自分が言ったり、というのはよくあると思う。しかし考えなければいけないのは、その「いろいろな人」には自分自身のことが含まれていることを忘れがちになることだ。「まあ、いろんな人いるからね」…これを言うときは、基本的には否定的な意味で使う。分からず屋、わがまま、すぐ感情的になる人、相手の話を全く聞こうとしない人、…要するに「困った人だ」というニュアンスで言う場合だ。肯定的な意味やプラスのイメージで言うことは、まずない。
「上から目線」という言い方がいつ頃から使われ始めたのかは分からないが、昔は今ほどこの言葉は聞かなかったような気がする。自分がそれを知らなかっただけで、意外に以前から使われていたのかもしれないが、僕がそれを意識的に感じるようになったのは、十数年くらい前からだ。ただ僕は、この言い方は、良い表現だと思う。適切で分かり易い。
「世の中にはいろいろな人がいるから」…これは、悪意や意識的なことがなくても、残念ながらそこには「上から目線」の気持ちが必然的に前提であることは分かっていたほうがいいと思う。そしてその「いろいろな人」には、それを言っている当人も、残念ながら含まれていることを自覚していたほうがよい。
なぜ「上から目線」が問題かと言えば、そこに「排除の論理」が内在しているからだ。「上から目線」のないところには、基本的に排除の思考や行動は起こり得ない。「自分はああいう人とは違う」ーそこから排除の社会は生まれる。コミュニケーション向上の努力を含めて、関わりを大切に丁寧に築き上げている社会には基本的に「上から目線の姿勢」も「排除の論理と行動」もない。
それらの認識を深めた上で、しかし現実に確かに「まあ、いろんな人がいるから」という表現は仕方ないし、そしてそれは事実だ。この言い方のあとには、「だからまあ、仕方ないじゃないか」という良い意味での諦めの感覚がくるはずだ。
なぜある意味、諦めも必要なのだろうか。それは人間の社会をどう解釈するかという認識が関わっている。
僕は以前は「みんなが良い人間になれば、良い世の中になる」と思っていた。でも今は「いろんな人がいる」という認識になった。「上から目線」のもつ危険性を自覚した上で。自分自身を含めて、本当の意味で「いろんな人がいる」「この自分を含めて」という認識で個人や集団、社会というものを考えていくと、自分のなかに余裕が持てる。正直、「頑張れる人」も「頑張れない人」もいる。「ひたすら他人のために生きようとする人」がいる一方で「自分のことしか考えない人」もいる。優しい人と冷たい人もいる。優しいがだらしのない人もいれば、しっかりしているが融通がきかず、形式的な人もいる。嘘ばかりつく人、逆にバカ正直な人…等々等々…人間を「よい人と悪い人」「ダメな者と優れた者」「社会に役にたつ者と社会の負担になる者」…そういうふうに捉えるのではなく、誰でも、自分自身をも含めて、みなそれほど変わらないということに気付いたほうがいい。それが無理をせずにしぜんとみなが調和していける世の中だと思う。