戦後の映像

まず焼け野原の東京の全景。次に皇居前でひざまづく人々。泣いている女性がいて、でもいちばん印象深いのは、坊主頭に眼鏡の男性。
そして次はたいてい厚木に降りるマッカーサー。軍艦ミズーリ号の甲板での降伏文書調印。
あとは…闇市に復員兵、米兵の乗ったジープが走り、戦災孤児が施設に収容され…DDTを吹きかけられる子供達、教科書に墨を塗る小学生…だいたい当時のニュース映画からとってきたものだ。そう、多くは「りんごの歌」がBGMのように流れる。
東京裁判、頭を叩かれる東条英機。新憲法発布。交通整理する米兵。学校給食でコッペパンを食べる生徒。…そしてお決まりの朝鮮戦争から警察予備隊と朝鮮特需、講和条約の調印。
それらは何も意味しない。毎年の決まり切った記録フィルムの連鎖。ぐるぐると同じ「時」を回るだけ。
ああいう記録フィルムは、意識も無意識も通り越して「無機質」の感覚を刷り込ませ、しぜんとそこに映し出される風景を眺めていくようになる。「ああまたか」「例のあの場面か」…何回見ただろうか?…そのうち、そういうお決まりの場面がないと、なにかヘンな感じになり違和感をおぼえるようになる。その場面を気持ちのどこかで待つようにさえなってくる。
「戦争の記録」「終戦の風景」…それは作られた物語として刷り込まれる。